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197件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

2014-05-14 第186回国会 参議院 本会議 第21号

米の歴史を振り返りますと、戦後、昭和二十年代から三十年代にかけて米は大幅に不足状態になり、当時は米の増産政策を実施しておりました。戦後の農業政策の代表的な事業一つとして、秋田県八郎潟干拓事業がございました。これは昭和三十二年、一九五七年に始まっております。当時は岸信介総理大臣でございました。  

儀間光男

2013-11-05 第185回国会 参議院 農林水産委員会 第2号

先ほど横山政務官の方から答弁ございましたように、米の需給につきましては、戦後、昭和二十年代、三十年代におきまして大幅な不足状態にあったわけでございまして、米の増産政策を実施してきたところでございまして、八郎潟干拓はその一環として昭和三十二年に国営事業ということで着手したものでございまして、昭和四十一年に約一万三千ヘクタールの新たな農地が完成しまして、昭和四十二年から入植を開始しまして、翌四十三年から

佐藤一雄

2013-11-05 第185回国会 参議院 農林水産委員会 第2号

米の増産政策を当時は実施をしておりました。その一方で、米の需要量は、食生活の変化等によって、昭和三十年代後半をピークにほぼ一貫して減少をしてまいりました。このような中、昭和四十年代前半に大豊作がございまして、食管制度による政府全量買入れ制度の下で膨大な政府在庫が積み上がり、米の生産量の抑制が急務となったところでございます。

横山信一

2007-10-25 第168回国会 参議院 農林水産委員会 第2号

農林水産省経営        局長       高橋  博君        農林水産省農村        振興局長     中條 康朗君        林野庁長官    辻  健治君     ─────────────   本日の会議に付した案件 ○政府参考人出席要求に関する件 ○農林水産に関する調査  (品目横断的経営安定対策に関する件)  (米価下落対策に関する件)  (米国のバイオエタノール増産政策

会議録情報

2006-06-01 第164回国会 参議院 農林水産委員会 第11号

○国務大臣中川昭一君) まず、今回の政策は、農業政策、つまり食料増産政策というものをはっきりと位置付けているというのが一つの大きな特徴で、食料増産じゃございません、自給率あるいはまた消費者から好まれる農産物を供給することによって消費者にもプラスになり、それから生産サイドもそういう消費者を意識した経営をやることによって経営がより良くなっていくという、その経済的な側面といいましょうか、農業的な政策を準農業面

中川昭一

2005-03-31 第162回国会 参議院 農林水産委員会 第7号

それだけではなくて、やはり日本型の増産政策続けていっていただきたいと、このように思う次第であります。  次、新しい基本計画食料自給率、この食料自給率の中でも生産額ベースの意義についてお伺いをいたしたいと思います。  島村大臣がいつも例に挙げております、この生産額ベースで一九六〇年と比較したらばどうなるでしょうか、あるいはイギリスやイタリアと比較したらばどうなるんでしょうか。

主濱了

1999-06-08 第145回国会 参議院 農林水産委員会 第20号

というのは、その当時、食料増産政策を展開して価格も所得も保障されていた時期、三千四百万ぐらいの農家人口で、今は三分の一に減っております。その当時、生き生きと農民生産拡大に励んだわけです。こういう歴史的な経験があります。生産がふえるも減るも政府施策いかんにあるということなんです、私が言いたいのは。政府生産拡大増産運動を掲げたとき、農村は変わった、そういうことに学ぶべきだと思うんです。  

須藤美也子

1996-04-26 第136回国会 参議院 環境特別委員会 第8号

当然その時期というのは、戦後の食糧増産政策から出発した干拓事業ということでありました。しかし、それも昭和四十五年の減反政策が始まるとともにストップがかかって、昭和六十三年に本庄工区の工事は農水省と島根、鳥取両県の合意のもとに中断され、現在に至ったわけです。  干拓凍結決定後も、その土地利用につきましては国と県の間で協議が繰り返されていたようです。

畑恵

1988-09-06 第113回国会 衆議院 決算委員会 第4号

この農民の強い要求ですが、結局戦後の増産政策の中で用水の水を使用して食糧増産を図る、こういうことで進められたわけですが、当初より計画がうんと延びておるし事業費もうんとふえておるわけですね。しかも、片っ方では農村が米の減反とかミカンの価格の低迷、こういうことで非常に深刻な状態であります。この負担の軽減というのは非常に強い要求であるわけでね。  

野間友一

1984-03-10 第101回国会 衆議院 予算委員会第五分科会 第1号

永井分科員 まず初めに、大臣に基本的な考え方をお聞きしたいと思うのでありますが、農業政策がかつての米の増産政策から今減反転作へ変わってきたわけですね。これは、今の食糧需給状況から見てこのまま引き続きそういう政策を維持すべきだとお考えになっていらっしゃいますか。それとも、さらに農業政策そのものを新たな視点から転換させるべきだとお考えですか、お聞きいたします。

永井孝信

1982-04-14 第96回国会 衆議院 農林水産委員会 第14号

ところが、鈴木総理は、よその国に行って、得々と説教をしたあげくの果てに「わが国農業は、国の食糧増産政策農民創意工夫組織力等があいまって狭小な農地を集約的・多角的に活用し、農業生産力を上げ、わが国経済社会全体の発展に貢献してきました。」と非常に日本農業はうまくやっているという鼻高々の論をぶち上げていらっしゃるわけです。

藤田スミ

1982-03-26 第96回国会 衆議院 商工委員会 第7号

また終戦後多くの方が国の食糧増産政策などにのっとって山間僻地開拓地に入って非常な苦労をされながら、最初三十数戸あった部落がいまでは二、三軒しか残れない、こういう状況にある一方、国では酪農を振興しなければいけないということで、年々多額の補助金なども出し、また酪農振興法とか畜産物価格安定法あるいは加工原料乳生産者補給金等暫定措置法、それにまた農業協同組合法なんかもありますけれども、こういったいろいろな

石原健太郎

1980-11-27 第93回国会 参議院 商工委員会 第6号

わが国石炭鉱業は、敗戦後の経済復興担い手として、昭和二十二年度より傾斜生産方式が採用され、夜を日に継ぐ増産政策が推し進められてまいりました。しかし、三十年代後半から進行したエネルギー革命によって石炭鉱業は壊滅的な打撃を受け、その後は御承知のとおりなだれ閉山と称せられる状況を呈し、今日に至っております。そして、その後に残ったものは、疲弊した産炭地域無数のぼた山であります。  

小柳勇

1979-06-06 第87回国会 参議院 大蔵委員会公聴会 第1号

ただ問題は、これまでの増産政策その増産政策のあり方が品質低下を招いたというぐあいに私どもは考えております。ですから、これまでの専売公社の指導が量目重点であって、そして品質劣化がしてきた中で、いきなり品質向上というのを持ち出されたという点では、耕作者の間にはかなりの戸惑いがございます。

谷本たかし

1978-06-14 第84回国会 参議院 商工委員会 第23号

わが国石炭鉱業は、敗戦後の経済復興担い手として、昭和二十二年度より傾斜生産方式が採用され、夜に日を継ぐ増産政策が押し進められてまいりました。しかし、三十年代後半から進行したエネルギー革命によって、石炭鉱業は壊滅的な打撃を受け、その後は御承知のとおりなだれ閉山と称せられる状況を呈し、今日に至っております。そして、そのあとに残ったものは、疲弊した産炭地域無数ボタ山であったのであります。  

小柳勇

1978-03-23 第84回国会 参議院 予算委員会公聴会 第1号

たとえば、大きなその作付転換の二つの事例を申し上げますと、皆様御承知のように、一つは、例の米騒動のときの米価の非常に高騰した時代に国を挙げて米の増産政策をやった。特に畑を開墾いたしまして大々的に水田を造成いたしました。そしてそのときには非常に大きな助成金開墾助成法という名目で与えたわけであります。

金澤夏樹

1977-06-08 第80回国会 参議院 農林水産委員会 第20号

さらにことしの増産政策にどのようにその評価を生かそうとしているか、その点。  それから昭和五十一年度の農業白書によりますと、農業生産の動向で麦の評価については主要生産地を中心に麦の生産回復状況が報告されているわけです。その中で、小麦の米に対する相対価格については二十年代中ごろでは六〇%であったが、三十八年に五〇%を割り、五十一年には四〇%にまで低下した。

相沢武彦

1977-03-14 第80回国会 衆議院 予算委員会第四分科会 第3号

私の記憶で間違いがないとすれば、あの年に外貨が二十億ドルに達したというので、これだけの外貨がたまればもう必要な食糧等は十分に外国から買える、したがって無理して国内でつくってもらわなくても結構だ、こういうことで、従来の食糧増産政策を変更する、こういうふうに変わりましたのが、例の西村農林大臣の唱えたところの総合農政でございます。

西宮弘